塾のこと、介護のこと。

プログレスゼミナール

母が亡くなりました。

 


母が亡くなりました。
このブログでは、塾のことと、介護のことも、書いてきました。
介護に関しては、私自身が色々悩んでいた時、随分と自分の介護の話をされていた方々のネットのコメントに励まされてきたので、及ばずながら私も、今悩んでいる方のお力になれたらと、綴ってきました。
ともに認知症であった両親の自宅での介護⇒入院に至る事情⇒そして、施設入所までの経緯など。
父の最後は看取ることはできませんでした。ロングのショートステイという、施設側の配慮で、本来ならば短期間のショートステイをずっと延長してくださり、それなりに順調に過ごしていたのですが、誤嚥性肺炎になり入院。足腰も弱っていたし、認知症がひどく、その頃母も自宅でみていたので、父は施設にお願いしようと、リハビリ病院を退院後高校時代の友人が勤務していた施設に入居させました。それから、わずか4日後に息を引き取りました。その時は突然で、私も塾をしていて、連絡を受け途中で生徒を帰し、大急ぎで搬送された病院に駆けつけましたが、既に亡くなっていました。
母の時は、お医者様から発熱があったので、pcr検査や肺のレントゲンを撮ったら、検査の結果陰性でコロナ感染ではなかったが、父と同じく誤嚥性肺炎との診断でした。
いわゆる、余命をお聞きしたら、今晩かもしれないし、数日かもしれないとのことでした。多分前回のブログで、そのことは書いていたと思います。
5月末のことでしたから、よく頑張りました。
私にとって、今回は介護ではなく、その後に続くもの、看取り、の、勉強(?)をしなくてはいけませんでした。誤嚥性肺炎ではありましたが、もう、老衰でもあったので、決して元気になることはない。徐々に命の炎は消えていく。それは、間違いない。けれど、それがいつなのかもわからない。
お看取りは近いかと思われますとお医者様に言われた時から、私の毎日の施設通いが始まりました。思えば、コロナが流行してから、リモートでの面会しかかなわず、本来ならもっと母とじかに接することができたのにという思いから、何とか失われた日々を取り戻したいという気持ちもありました。正直毎日の施設通いは、くたくたになりました。施設のスタッフが、私達もいますから、無理しないでくださいね、娘さんが倒れたら何にもなりませんよと、声をかけてくださいました。よほど、疲労困憊していたのでしょう。けれど、今日はきついから行くまいと思って行かなかった時に、万が一のことがあったらと思うと、一日も休むことはできませんでした。家では、トイレにもお風呂にも携帯電話を持っていきました。着信音がすると、胸がいつもドキッとしました。真夜中に電話があったらどうしよう、と、なかなか寝付けず朝を迎えることもありました。ああ、今日もまだお母さんは生きているんだなと、ほっと、胸をなでおろし、また、バタバタと支度して施設に向かいます。
目を開いているときもあれば、閉じているときもある。呼吸が乱れていない時もあれば、ハアハアとしんどそうな時もある。息苦しそうなときは、じゃあ、また、明日来るねと、ドアの近くまで行くのですが、また、枕元に戻りを数回繰り返します。そろそろではないかと言われてから、二週間ほど経っていたでしょうか?
明らかに、呼吸が乱れて酸素量も落ちていました。その晩から、酸素マスクをつけ、点滴をしようということになりました。初日酸素量は1リットル、翌日は1.5リットル、そして、次の日は突然5リットルに跳ね上がりました。もう、気が気ではありません。私は、看取り、誤嚥性肺炎、点滴、酸素マスクなどのワードを入力して、ありとあらゆるネット検索をしました。
あるお医者様は、はた目には苦しそうに見えても、実は脳内に酸素が行き届かなくなると、二酸化炭素が増えるが、結果、恍惚状態になり本人は幸福感が増してくる。だから、酸素マスクをつける必要はないと説明する。また、点滴を続ければもう血管がぼろぼろになり、尿量も少なくなれば、水分を排出できず、体中がむくみ、却って苦しい思いをさせると見解を述べるお医者様もいる。

親戚も、点滴を中止してくれと頼んだ。中止して4日目に息を引き取った。いつまでも点滴のみで意識もないまま生きながらえることが、果たして本人の望みだろうかと考えたといいます。

私も大いに悩みました。けれど、主治医が、お母さまが苦しまれず穏やかな最期を迎えられるように、酸素投入と点滴をしましょうとおっしゃったので、様々な意見があるかもしれませんが、私はそれに従うことにしました。酸素は一旦3リットルに下がり、息遣いも普通に戻り、表情も穏やかな感じでした。しかも、今まで処方されていた血圧を下げる薬や睡眠導入剤などを一切やめたことで、反対に脳がクリアな状態になったように見受けられました。
夜間スタッフが母のお世話をしていた時に「ありがとう」と声をかけてもらったと涙ぐんでおられました。点滴は殆どが水分のみでカロリーも、缶コーヒー1本分くらいなので、体重・筋肉はみるみる落ちていきました。足は、骨と皮状態。まるで骸骨のようでした。それでも、母は生きています。苦しい様子を微塵も見せず生きています。時折薄く目を開けて私を見つめることもありました。

けれど、とうとうその時がやってきました。7月3日の朝危篤の知らせを受けました。
表情は穏やかなまま。けれど、呼吸はとても浅く途中無呼吸状態にもなりました。
パジャマの一番上のボタンを私は凝視します。息をしていたら、微かにボタンが動くのです。
妹に連絡をしました。姪達も妹からの連絡を受け施設に向かいました。妹や姪達が到着したのは夕方でした。母の酸素量は健康な人と同じくらいの数値を示し、時折閉じたままでも眼球が動くのがわかりました。耳も澄ましている感じでした。
看護師さんが、すごい生命力ですね、昼まで持たないと思っていましたと、仰いました。
そして、長丁場になるかもしれないので、途中で休めるようにと、ソファーを部屋に入れてくださいました。姪の一人は看護師なので、脈をとったりして、あと、2・3日は持つかもしれないねと、言って、妹家族は帰っていきました。
ベッドわきでスタッフさんとほんと頑張りますよねと、話していた時、母が最近発していた、あ~とか、べ~とか言う声が聞こえました。また、あっかんべ~って言ってると笑いながら、ふと、ボタンを見ると、動いていません! 妹たちが帰ってから数分後の出来事です。
施設の看護師さんが胸に聴診器を当てて静かにおっしゃいました。
「動いていませんね。止まっています。」と。
なんとも、あっけない、そして穏やかな最期でした。
「皆さんを待っていらっしゃったんですね。」とスタッフの方が言われました。ほんとにそう思わざるを得ませんでした。

92歳になっていました。6年間お世話になった施設。たくさんの写真を残して下さっていました。小川さんは、とても感情豊かでよく笑うし、感激したら号泣していました、スタッフが困っていると、大丈夫よといつも声をかけてくれていたと言ってくださいました。
また、福島の復興応援ソングの「花は咲く」をBGM代わりに施設で流していたところ、すっかり母が歌詞を覚えてしまったとも聞きました。
要介護5という最高レベルの認知症の母がですよ!
施設に預けることを未だに介護放棄だとか姥捨て山だとかいう人もいます。けれど、この少子高齢化、徐々に考え方もかわりつつあります。CMでもそういう類のものが多くなってきています。賛否両論あるかもしれませんが、私は母の施設での6年間はとても幸せなものであったろうと思います。
毎年誕生日会も開いてくれて、写真付きの色紙を作ってくれます。母は施設長が大好きで、彼と一緒に写っている写真は、まるで乙女のようです((笑)
今でも、無意識に、アッ、携帯!とトイレにまで持っていきそうになります。そうだった、もう、電話はかかってこないんだと、なんだか少し寂しい気持ちにもなります。
でも、なるべくあまり考え込まずに、これからは、夏休み、ビシバシ、受験生を鍛えていくべきエネルギーをチャージしていくことに重きを置こうと思います。
今年の受験生はまるまる3年間コロナ禍で過ごしてきたので、通常とは違う相当の覚悟がお互い必要になるだろうから・・・

プロゼミ  小川

猫にも認知症?

 


ようやく緊急事態宣言も解除されました。しかしながら、母の施設は相変わらずオンラインのみでの面会がかれこれ二年間続いています。
最初、母を施設に入れたころは週に2回面会に行っていました。友人からは多くない?
月1でもいいくらいよと言われていましたが、行かないと安心しませんでした。けれど、3年ほど前に私自身が大病を患ってしまってからは、入院の時は勿論行けずじまいで、そのあとからは週1に変更しました。
理由の一つは、私の入院中は全面的に施設にお任せしていたのですが、これといったトラブルもなく、週に2度3度行かずともお任せで大丈夫だと思ったこと。
それと、もう一つは、母の認知症がかなり進み、もう、私が誰だかわからなくなっていることです。結果私と頻繁に会えなくても淋しがらなくなりました。
オンラインの面会でも、目も合わないし、そこには能面のように無表情な母の姿があるだけです。けれど、血色もよく体調面はすこぶる良好だということはわかりますので、安心です。

今気がかかりなのは、我が家の猫のドナちゃんです。入院の際、母は施設にいたのでよかったのですが、一人暮らしの私でしたので、入院するとなると、ドナちゃんの生活に支障をきたします。そこで、姪や妹に頼んで、毎日でなくてもよいのを条件にお世話を頼みました。
食事や排泄の始末にはそういうわけで、困らなかったのですが、世話が終われば姪達は帰ります。だから、ドナちゃんは二週間以上淋しい夜を過ごさねばなりませんでした。それが、たぶんきっかけでしょう。ドナちゃんは、分離不安症のような状態になりました。ペットに特有の病気で、飼い主と離れられなくなる。いつもついて回る。少しでも姿が見えなくなると鳴き続ける。その状態が結構続きました。しばらくして、少し収まったのですが、今ドナちゃんは15歳くらいで結構なおばあちゃんになりました。時折ぼ~っとしているかと思えば、今度は、狂ったように鳴きじゃくります。そして、最近慢性腎不全に加え、膀胱炎の症状も出始めました。人間にも膀胱炎はありますが、猫ちゃんは精神的な不安からも起こるそうです。また認知機能の衰えからも起こりやすいとか。
抗生物質などを投与して、今は療法食に切り替えて毎日を過ごしていますが、認知症らしき症状は進んでいます。
鳴いて何事かを訴える。だいたい、私の言葉は理解しているし、私もドナちゃんの返事やしぐさで何を欲しているのかわかります。けれど、最近は、たぶん、ドナちゃん自身もわからないようなのです。鳴くには鳴く。けれど、私に何を訴えているのか、何をどうして欲しいのかわからないようなのです。その場にじっと、座り込んで、次のアクションを起こさず、ただキョロキョロするだけです。
そこで、とりあえず抱っこします。すると、ちょっと安心したような表情を浮かべ、しばらくすると、水を飲みに行ったり、トイレに行きます。
鳴く⇒抱っこする⇒ドナちゃんが別のことを始めるので私も家事などをし始める⇒また、鳴く⇒どうも二階に行きたいようだ。階段を下りるのは何とかできるが上るのが一苦労みたい⇒抱っこして二階に行く。⇒また、鳴く⇒今度は下に降りたいのだけれど、もう疲れてしまったの合図の鳴き声みたい。
この、ルーティンの日々が少しずつ増えていきます。一たび寝たらかなり長時間寝るので、その間にチャチャっと用事を済ましています。

これからは受験真っただ中に突入するので、指導にも準備にも時間を割かねばなりません。
両親が家にいた頃は、授業中にも怒鳴り声を出しながらやってきていたので、それを考えれば人間の認知症よりは生徒への危害はないので助かりますが、一人にさせている時間は長いので、これまた、どうしているかと心配になります。

なんだか、人生って次から次へ色々な困難が待ち構えていて、心底楽しめる時期って短い気がします。最近は20代くらいのことが思い出されてならない私です。
後悔先に立たずとは、よく言ったもので、後から気づくからあとで悔やむわけであり、その時々では、いくら、将来後悔するよと、親や周りの大人に言われても若者は突っ走る。
中3になったら困るからと言っても耳を貸そうとせずに結果今慌てふためいている受験生。
だから、言ったでしょうと言っても、もう過去に戻って勉強をやり直すことはできない。
これから先、勉強以外でも苦しみ・辛さ・後悔を味わう日々の連続だということも、タイムトラベルで、将来を垣間見られる人しかわからないし、当然それは、不可能です。
ああ、あの時は失敗もしたけど、楽しかったな、でも、今の方がもっと楽しいやと思える人生を生徒達には送ってほしいものであります。

プロゼミ 小川 文子

もうすぐ母の誕生日

 


もうすぐ母の誕生日

今回は久しぶりに介護について書いてみたいと思います。

父の七回忌を昨年済ませ、今年は、このコロナ禍の中、叔母が亡くなりました。91歳でした。母も、18日に、その歳になります。母は、施設にいますが、コロナの影響で面会は禁止。ただ、ラインでのビデオ通話ができましたので、日頃の母の様子は、わかります。でも、認知症も随分進み、ライン電話で「お母さん」と呼び掛けても何の反応も示しません。昨年くらいから、既に私が娘だということは認識していませんでしたが、笑顔はこぼれていました。でも、今はもう、能面のようです。
ただ、ある意味、そっちの方がいいかなというか、よく、ここまでたどり着いたという思いも正直あります。
両親ともに認知症で一人で自宅で介護をしていた時のことを考えると夢のようです。

最近NHKのTV番組で、「デイアペイシェント~絆のカルテ~」というドラマが放映されていました。親愛なる患者様なのでしょうが、実態はモンスターペイシェントに振り回される医師と、その患者たちの物語で、その中に認知症や、介護問題が絡んできます。
その、ドラマを観て、ほんとに、身につまされると言おうか、涙があふれて仕方のない場面がたくさんありました。
ある男性の患者は自分も糖尿病などの持病を抱えている中、介護離職。経済的に困窮する中、一人で、認知症の母親の介護をしています。母親は、ベッドに寝たきり。言葉もろくに発することができないので、息子を呼ぶときは、ベッドの鉄の柵を棒で、ガンガンたたきます。息子が返事するまで、いつまでも、ガンガンとたたき続けます。息子は、いらいらしながらも、母のもとに行き、下の世話もします。
ここで、既に私は、滂沱の涙。普通の人なら、「えっ、ここ、泣くとこ?」と、思うでしょうね。 私、今、この文書いているときにも、涙が出てしまいます。
この、「ガンガン」の音、私にもこびりついています。それは、私が塾で生徒たちを指導しているとき、いつまでも自宅に戻ってこないので、母が自宅のスチール製のドアを棒でたたいているときの音とそっくりでした。
建物の構造を説明しますと、2階が塾で、3階が自宅です。そこで、3階の扉を開き、ガンガン鳴らすのです。当然、生徒はおびえます。へたしたら、塾に乗り込んでくるからです。
出て行けとカバンを投げ捨てられるからです。「おばちゃんが怖い」と、泣いた子もいます。「殺される~!」と叫んで、逃げ帰った子もいました。「やめて頂戴」と言ってもわかるはずはありません。手を変え品を変えながら、おだてたりもして、興奮が収まるのを待つしかありません。私自身ならどんな目にあってもいいのですが、大切なお子様をお預かりしているわけだから、そのお子様を危険な目にあわせてはいけないと、それはそれは必死でした。
また、私が、がんがん鳴らしたことも何度もあります。塾を終え、自宅のドアを開けようとしても、開きません。鍵を閉めているのです。鍵だけなら勿論いいのですが、チェーンをかけているので、入ることができないのです。インターホンを鳴らしても気づきません。高齢者になると、聴力が衰え、高い音は聞きづらくなります。ですから、あの、「ピンポ~ン」は、何度鳴らしても寝ていたら尚更聞こえません。だから、ドアをたたくしかありません。何度も何度も、がんがんと。毎回、両親のどちらかが気づいて、開けるまで1,2時間かかる時もありますし、そもそも、認知症なので、チェーンをかけたのは、自分たちのくせに、外し方がわからないのです。そこで、また、必死で開け方を説明せねばなりません。
そのころの記憶が蘇ってきて、ほんと、泣けて泣けてしょうがありませんでした。
最終回では、いつも、その患者にいちゃもんをつけられる医者が、その患者の家を訪ねます。
劣悪な環境でした。たまたま患者は留守。母親の息子を呼ぶ言葉ではない、喚き声と例のガンガンが響き渡ります。そこへ、息子である患者が戻ってきて、「何しに来た!貧乏人を馬鹿にしにきたのか!」と叫びます。そう言いながら、息子はいつまでも喚き続ける母親のもとに行きます。「わかったから!わかったから!」と、怒鳴りながら。
でも、その手はしっかりと、母親の手を握りしめています。もう、ここで、また涙。
親子って、本当に切っても切れない絆があるんですよね。色々大変な目にあわされても、決して捨てることなんてできないんです。でも、もう、自分自身の生活がいっぱいいっぱいで精神的に耐えられなくなったら、その時は施設を頼っても致し方ないと思うんです。
よく、何も自分たち自身に介護の経験もなく、机上の空論よろしく、施設に親を預ける人たちを鬼畜呼ばわりしますが、決してそんなことは、ありません。姥捨て山だという人もいます。でも、劣悪な環境に一日24時間ベッドの上に寝かされたままの方が、どれだけ人間の尊厳が失われていると思いますか?
実は、この医師も母親が認知症になり、自分は仕事で上京しており、実家の父親と妹に介護を頼むしかなく、罪悪感を感じています。けれど、だからと言って、たくさんの患者を抱えている自分が離職することはできない。結果、その医師の母親も施設に入ります。父親も医師で妹は医療事務などを手伝っており、そこに認知症の母親がいたら、とても仕事にならないからです。
私も、生徒を指導しつつ、常に耳を澄ませていました。父が徘徊するからです。ドアが開き出ていく気配を感じたら、生徒を待たせて、父の徘徊を阻止せねばなりません。また、母親の乱入を防ぐために睡眠薬を飲ませにも行かねばなりませんでした。あとは、母が激高して、「今から火をつけて家じゅうを燃やしてやる!!」とか、言い出すようになってからは、とても一緒には、暮らせないと思いました。もし、本当にそうなれば、人様にも迷惑をかけてしまいます。密集地ですから、瞬く間に一帯は火の海と化します。
また、仕事の間は、両親の面倒が見られませんから、その間、母が下の始末ができずに足に汚物をつけたまま、歩き回っていても気づきません。父がトイレではない場所で用を足しているのもわかりません。塾での指導を終え、ドアを開けたときの異臭で初めて気づきます。
以前も書いたかもしれませんが、ペットも飼っていたので「うん? お父さんかな?
お母さんかな? それとも、ドナちゃんかな?」と考えねばなりません。でも、猫のドナちゃんは、いつもトイレで用を足しますし、粗相をしたことはありませんから、両親のどちらかになります。汚物のついたおむつをそのままどこかに隠しこんでしまう時もありました。早く探さなければ、うじがわきます。このように、特に、誰にも頼ることができず、仕事を抱え、片親のみならず両親の介護を自宅でするのは、困難だし、私は女性だからそこまでにはなりませんでしたが、必ず劣悪な環境に陥ります。ですから、自分のためというよりは、親のためにも施設をお勧めします。もちろん、その際、施設選びは慎重にすることは、言うまでもありません。

今思い返してみても、ほんと、一人で、よく、頑張れたなあと思います。でも、子宮筋腫の手術をした時も、脳腫瘍の手術をした時も当時は大変だったのですが、振り返ってみたら、それはもう遠い昔。まさに忘却の彼方で、介護に関しても同じ。
母が、塾に入ってきて、段ボール箱を指差しながら「新しい生徒さん?」と言ったことや、視力検査で「私の勘じゃ上に穴が開いている」とか、父が「今から電車を買いに行く」と言って、自転車に跨ろうとした時に、母が「いやあ、お父さん、大きすぎて家には、入らん」に対し、「なら、倉庫を借りる」と、一見話の辻褄は合い、私が「今日、電車屋さん、休みだって」というと、「そうか」と素直に自転車を降りたことなどが、懐かしく思い出され、そして、つい吹き出してしまいたくなります。今回のドラマで、辛かったことも少し思い出しましたが、それは、ごく、たまにです。

時が解決してくれるというのは、ほんとに、その通りだと思います。
そして、辛いことよりも、絶対楽しいことの方が、いつまでも心に残るものです。

プロゼミ 小川 文子

お誕生日会

 


母が米寿の年を迎えました。
父より一つ長生きしました。 私の願いが叶いました。
父が天国から見守ってくれているのかもしれません。 母は感極まって涙、涙。
認知症でも感情はしっかり残っているという証拠です。
以前も話しましたが、最近よくテレビで芸能人たちの奮闘記が放送されます。
父が母が認知症になった、奈落の底に突き落とされた。しかし、最後まで介護することを決意した。バリアフリー化も自分自身の手でやるんだ!!
映像を見て、その番組の出演者は拍手喝采。 すごい、偉い、感心だと。
ずいぶん前に、ある大物俳優が父親を老人ホームに入れたことで、ものすごくバッシングを受けたことがあります。彼は、一言も記者たちに世間に対して口を開こうとしませんでした。テレビドラマでも老人ホームを姥捨て山のようなイメージで取り上げる脚本が以前は目立ちました。
けれど、24時間そばについてあげることが出来ないとき、たった一人ぼっちで自宅に置いておくよりも栄養管理・体調管理を毎日してくれて、こんなに母が喜ぶつような毎日を与えてあげることがほんとの親孝行ではないかなと私は思います。フラダンスの男性は施設長です。はにかみながらも、場を盛り上げるために一生懸命でした。
その俳優もきっとそう思ってのことだったのではないでしょうか?

さて、10月は私の誕生日でもありました。 塾に行くと、生徒たちがホワイトボードにお祝いメッセージを書いてくれていました。そして、ハッピーバースデイの合唱です。
来年で塾を始めて30年になりますが、こういう時にほんとに塾を続けてきてよかったと思います。
この中で何が気に入ったかというと、26歳になっているところ(笑)
もう言うことなしです!!

そして、失礼(?)かもしれませんが、このサプライズの中心になってくれた生徒たちが
正直決して成績はよくないということです。
若者が犯罪をおこしたら、あの、優等生がなぜ? あの、名門大学の学生がどうして?というような見出しが紙面を飾ります。
以前、成績が振るわないお子さんをお持ちのお母さまが、憤懣やるかたないという感じで私におっしゃったことがあります。
「じゃあ、先生、頭悪かったら罪を犯しても当然っていうんでしょうか? うちの、子供はとても優しくていい子なのに」と。
私は常々成績が振るわず不貞腐れてしまう生徒に言います。
成績の良しあしと人間性は違うよと。
成績を上げるべく努力は当然しないといけない。
それは、学生の本分だから、怠けてはダメ。だけど、絶対自分をダメ人間と思ってはいけないよと。
この、サプライズも頭がいいから思いついたのではなく優しい心根からのこと。
人にとって、いったい何が一番大切かをこの二つのお誕生日で改めて感じさせられました。

プロゼミ 小川

拉致被害者の会

 


Icon symbol of struggle and awareness, blue ribbon. Ideal for ed7月8日に福岡で拉致被害者を救う会の集いがあり、参加してきました。
拉致問題担当大臣も福岡県副知事も福岡市長もいらしていました。
けれど、正直原稿棒読みの感、無きにしも非ず。
心がこもっていない気がしました。
実は、私はずっと以前から拉致の件については関心がありました。
被害者もそのご家族もちょうど私の世代の方々です。他人事とは思えませんでした。
特に横山めぐみさんに至っては、まだ、わずか13歳。胸が痛いです。
私は塾でその年代の子供たちを教えています。
めぐみさんもそうですが、若くして特攻隊になりゼロ戦に乗って、玉砕していった若者のことにも特に夏が近づくと思いをはせます。
今の若者は、体たらくすぎる。 甘えすぎ。叱られればしょげるか逆切れ。
「お前たちのために、こんな世の中を作るために彼らはお国の犠牲になったんじゃないぞ!」と怒鳴り散らしたいこともしばしばです。
そして、こんなに幼く、こんなに甘えんぼさんの年頃の子供が、そんな不幸な目にあったのだと思うと、もう、かわいそうすぎて、私が親なら気が狂ったのではなかろうかと思います。

実際被害者の家族の方のお話も伺いました。涙が止まりませんでした。
これは、私も今認知症の親を抱えているから、なおさら身につまされる思いがあったからです。
もう、40年だそうです。拉致が行われてから。一人の後援会の方がおっしゃっていました。
僕が、大学卒業して定年迎えるまでですと。ほんとですよね。人生で一番輝いているときです。
北朝鮮に連れていかれた当事者は勿論のこと、帰還を待ちわびている家族ももう猶予がありません。
松木薫さんのお父様はお母さまの肩に手をかけたまま、息を引き取られたとか。そして、お父様が亡くなられてからお母さまは認知症発生。徘徊もひどくなる一方だったとか。
私の母も認知症ですが、私が娘だとわかっています。薫さんのお母さまも娘さんに「薫はどこ?薫は?」と何度も聞かれたそうです。娘さんは「海の向こうにいるけれど、きっと帰ってくるからね」と、なだめるそうです。
けれど、お母さまは朝から晩まで、海辺のテトラポットに座りずっと息子さんの帰りを待っている。毎日、毎日・・・
そのうち認知症が進み帰りの道がわからなくなってしまい、名札をつけることにした、けれど、その名札も引きちぎる。だから、履物に名前住所電話番号を書いたと。
会場からすすり泣きが聞こえてきました。皆さん私同様身につまされていらっしゃるのがわかります。私と同年代、そしてその親世代が殆ど会場を埋め尽くしていらしたから。ほんとなら、そこに若い人の姿もあってほしかった。まだ、現在進行形の事案です。みんなが我がことのように思ってほしいのです。
その後とうとう病院に入ることになったお母さま。今度は若いスタッフや入院患者に「かおる!」と言ってしがみつくそうです。中には、気性の荒い患者さんもいるようで、時には投げ飛ばされたのか殴られたのか目の周りに青あざをこしらえていたこともあったそうです。
今書いていても涙があふれ出てきます。私の両親とだぶってしまうから。
父もまだ自宅にいるとき私がカギを締めても何度もカギを開けたことがあります。
妹がまだ帰ってきていないからというのです。妹は既に嫁いでいるのに、学生のままだと勘違いしているのです。仕方がないから「今は修学旅行だから」とか言ってなだめます。

薫さんのお母さまはある時から車いすになられます。徘徊もある。へたしたら、病院スタッフがうっかり目を離しているときに外に出るかもしれないし、また、青あざ作るかもしれない。
「足をとりますか?命をとりますか?」と先生に言われたそうです。ですから、はっきりおっしゃいませんでしたが足は拘束されたかもしれませんね。
そして、お母さまも待って待って待ちくたびれて、とうとうこの世を去られたそうです。
娘さんは言われたそうです。天国でお父さんと一緒に薫を探してね。空からの方がよく見えるよと。
横田めぐみさんの弟さんも講演されました。ご両親も随分お年を召され、お父様は特に体調が思わしくないとか。お父様は弟さんの前では決して涙は見せなかったそうです。
ただ、一度、お風呂場でむせび泣いているのを目にしたことはあるそうです。

気が遠くなるような、長い長い歳月。 心が折れそうになるそうです。 そりゃあ、そうですよね。
何とか、今年中に拉致被害者全員の帰国を目指したい!!と大臣も言っていましたが、本当に本当に心底思います。

母の施設に今日も行ってきましたが、正直私のように頻繁に面会に訪れる家族は少ないです。
母の日にカーネーションプレゼントされていた方もごくわずかでした。拉致被害者の家族と違い会おうと思えばいつでも会える環境がどれだけ素晴らしいことかわかってほしい。
もう、みんなと顔なじみの私。ご家族さんの代わりににこにこ愛想を振りまいて参りました(笑)

プロゼミ 小川

姪の涙

 


父が亡くなって5年になる。
両親ともに認知症。仕事を持ちながら私一人での在宅介護はやはり大変だった。
机上の空論という言葉がある。
たとえ、介護のいろはを学んだとしても実践に移さねば、ほんとのことはわからないし、ケースバイケース。マニュアル通りに行ったらそんな楽なことはない。
よく、保護者の方からも相談と言うか愚痴を聞いた。
お姑さんを施設にやりたいのだが、ご主人やご主人の身内が反対すると。
お姑さんは認知症。脳こうそく。車いす。気性が荒い。うちの母とそっくり。私は実の母。
いらいらすれば、正直暴言を吐ける。しかし、ご主人の親となると、それもできない。
お風呂に入れるときも重労働で腱鞘炎になったと聞いた。お舅さんは他界しているが、今のご主人の年齢で亡くなられたので、息子なのに夫と勘違いして、浮気をした。愛する夫を奪ったとその保護者の方を殴るという。
身につまされた。
私も母から日傘で殴られ、父もハンマーを振り上げたこともしばしば。
結局施設に入れられた。
私も最終的にはそうした。生徒にも暴力をふるいそうになったから。
それまでの一連の経緯を私は殆ど誰にも相談せず、自分一人で決めた。実の妹は実は介護の仕事に就いている。だけど、あまりうちには来てくれなかった。
一か月に一回でもいいから、せめて、電話をかけて両親を喜ばせてくれと再三再四頼んでもかけてくれなかった。孫たちも最初は頻繁に遊びに来ていたが両親の認知症が進むにつれ足が遠くなったし、来たとしてもぞんざいな口の利き方しかしなかった。
私と街に出かけ服を買ってもらったり食事をごちそうになった後も家には寄ってくれなかった。心待ちにしていた両親に学校の勉強が忙しいいから帰ったよ。でも、お土産預かってきたよと私が何かしら両親の好物を買って渡していた。
泣けて泣けてしょうがなかった。
両親はものすごく貧乏をしていて、私や妹が子供の頃人並みのことがしてやれなかったことをとても悔いていて、孫たちのためにぜいたくすぎるほどのことをしてあげていた。

それなのに……

だんだん疎遠になった。
そして、父が亡くなった。父方の親戚にお前の妹家族は身内ではなく、他人が死んだような顔をしている、俺たちに挨拶もないとも言われた。けれど、お通夜・お葬式・初七日・四十九日・初盆と進んでいくうちに否が応でも妹家族とは会う回数が増えてきた。
妹は父が生きている間あまりお見舞いに来なかったが命日には毎月来るようになった。
毎月来れるなら、なら、なんで、生きているときにもっと来なかったのかとも、思ったが、ちょうど、私と疎遠になっていたころ、自分たちにもいろいろな問題が起こり、心の余裕がなかったらしかった。
もしかしたら、妹も私に相談したいことがあったかもしれない。母に対してぞんざいな態度をとっていた姪たちも、最近はよく母の施設を訪ねるようになった。
まるで、昔のことなどなかったかのように。
正直、私はやりきれないものを感じていたが、友人たちが、それは、もういいんじゃないの?今こうやってお母さんにも会いに行ってくれているのだから、水に流したらと言った。
私も、過去のことを今更持ち出してせっかく今の良好な関係が崩れてもと思いしいて言ううこともないまま、5年が過ぎた。

私は父の死をきっかけに、またもとに戻ったので、きっと父がみんなで仲良くしなさいと天国から見守ってくれているのだろうと思うことにした。きちんとみんながうまくいくように導いてくれているのだろう。
また、今年になり、母が何度か熱を出したが大事には至らなかった。これも、父のおかげかもしれない。

最近姪が、ばあちゃんとこに行く、長寿の色である紫のだるまさんを持って行くと言って訪ねてきた。
母の施設に行く前に昼食を近くのファミリーレストランでとった。その時、それまで、普通に他愛ない話をしていたのに、姪が、今だから言ううけどさ、仲が悪い時期があったやろ? だけん、また、元に戻れてうれしい。やばい、涙出てきた。
ばあちゃんたちが認知症になって、どう接したらいいかわからなくて冷たい態度をとってしまったことをとても後悔している。
今更過去は戻らんけん、今からでもばあちゃん大切にしたいと。
きっと父も喜んでいるだろう。
母は残念ながら私以外はわからない。孫を見ても孫とはわからない。だけど、それでもいいんだろうと思う。決して険しい顔はしていない。穏やかな表情をしている。
過ぎ去った過去の苦い思い出はもう忘れてしまおう。
孫からもらったかわいいだるまさんを見て目を細めている母を見てそう思った。

プロゼミ 小川

人は病気で死ぬのではなく、寿命で死ぬ。

 


人は病気で死ぬのではなく、寿命で死ぬ。
これは、母がよく口にしていた言葉です。
私も最近つくづく思います。
母の施設には100歳の人も多くいます。95歳で、足腰がしっかりしていて、今でも颯爽と歩かれる方もいます。
そうかと、思えば、母より、ずっと若い人が寝たきりの場合もあります。胃ろうをしていて、普通の食事ができない人もいました。この方は気の毒でした。楽しいおやつの時間も何も口にすることができないから。
寝たきりの人も勿論かわいそうです。
けれど、あら?  いつのまにか胃ろうの人が普通の食事に変わっている。
寝たきりの人が車いすになっている!!
スタッフさん曰く正直お年寄りには将来がないと思われるかもしれませんが、こういう奇跡もあるのです。だから、決してあきらめたらいけないんですよと。
ほんとうに母の言ったとおりです。

けれど….
普通の椅子に座っていらした方が車いす、そしてリクライニングの車いすに変わり、点滴の管が痛々しく細い腕に…
この方を見ていたら自然に涙があふれてきました。
もう、まさに骨と皮。
血管、動脈も静脈も透き通って見えて息も絶え絶えです。奇跡は、もう起こらないかも。

この施設は私の友人から紹介されました。義理のお父さんがいらしたのですが、亡くなられました。義理のお母さんはご存命ながら、今病院の施設におられ、私の母がいる施設への入居を希望しておられます。

まだ、空いてないやろう?と友人。 つらいですね。 誰かがもちろん転居も可能性ありますが、亡くなるのを待つしかありません。

脳死判定の時も自分の身内が脳死状態なら、決して脳死を認めたくないし、反対に自分の身内が脳死患者からの臓器提供を望んでいたら、、、。
立場立場で考え方も違ってきます。

今、私が出来ることやるべきことはありふれた日常の一環として淡々と母の施設通いを続け、そこで、目にする知り合いになった方々の死も受け入れ悼み、そしてまた、新しい明日を過ごすだけ。
母との穏やかな日常が長く続くことを祈るだけ。

20170404春になったので少し華やかな服を買ってあげた。
外面の良い母は、私には仏頂面だけど、スタッフさんには、にこにこ。
でも、つまり、まだ、母は私を娘と認識しているってことね!!

おたふく風邪?

 


新年早々、母がお世話になっている施設から電話。

元日の昼過ぎから高熱、そして、左ほほから耳下腺にかけての腫れ。

おたふく風邪なのか、それとも、ばい菌が入ったのかは不明ですが、三が日を挟むので血液検査の結果が出るのも遅くなるので、デイサービスや、他の方との接触が出来ません、個室で隔離させていただいておりますと。

90近くなった母、よもや、おたふくかぜとは考えにくい。看護師の姪、いとこの小児科医に母の画像を送っても、腫れが耳の周りではなく片方の顔面全体なので、おたふくかぜでは、ないと、思うとの見解。

でも、では、いったい、どこから、ばい菌入ったのかな?ばい菌が体中に回ったらどうしようと却って不安になる。認知症の人は、よほどのことがない限り、体がだるいとか、痛いとかは感じにくくなっています。けれど、さすが初日見に行った時は声も小さくすぐ睡魔に襲われるらしく、話しかけてもうつらうつらしていました。

けれど、気をもんでも仕方ない。翌日も様子を見に出かけました。

すると、息が荒い。苦しそう。「大丈夫?」の問いかけに「大丈夫……」と答えるのも苦しそう(泣)慌ててナースコールを押す。「あの、息が荒いんですけど!!」

すると、部屋に来た看護師さん、「酸素も97%あるし……ああ」と納得したように「鼻くそが詰まってますね」(笑)

いや、笑い事じゃないですよね?(再び(笑))

でっかいのが詰まっていたから、呼吸を邪魔しているわけで、窒息死するかもしれませんよね? てなわけで、テイッシュをこより状にして、鼻の穴に突っ込んで。

出てきました!でっかいのが!!  

良かった。 そのあとは、すうすうと、とても鼻の通りもよくなり、一件落着。

けれど、検査の結果が出るのは、成人の日の連休もあり、結局10日以上かかりました。

入院しているわけではないけれど、同じような状態。よく、入院したら、認知症が進むと言います。母は、人と接するのが大好きなので、ずっと天井や窓の外を見る毎日は、とてもつらそうでした。

看護師をしている姪が、もしもの時はどうするかを考えていた方がいいよと言ってきました。延命治療をするか否か。自宅で介護に切り替えるか病院に移すか等々。

父の入院の時も一番にそのことを聞かれました。

姪は急性期の患者さんを診る病院、つまり、救急病院に勤務しています。最初の所属は集中治療室。ですから、間近で何度も人の生死の境を見てきたわけです。ですから、最もな提案です。私は、もし、母が余命いくばくもないとわかったら、自宅近くの病院に入院させようかなとは、思いました。それこそ、もしもの時は今の施設は遠いので、間に合わないと思ったのです。

けれど、結局おたふくかぜではないことがわかり、かつ、ばい菌による、高熱・腫れだったとしても、抗生物質のおかげで、体調が戻り、10日ぶりにお風呂に入り、デイサービスに行ったら、母が号泣したという話を聞き、やはり、何かの発作や梗塞で救急病院に搬送されるような必然的な理由以外は、施設に置いておく方が母のためにはいいのだと考えを変えました。一人ベッドに横たわっていた時は、やはり寂しかったのでしょう。けれど、その、心の中を上手に言葉や態度として表現できないもどかしさ、ジレンマがきっとあったのでしょう。デイサービスに戻った後の母は満面の笑み。

その後、数日して行われた新年会の母もとても楽しそうでした。

毎回思うのは、どちらサイドで考えているのかということです。

私自身の都合で母の居場所を決めるのか、母自身の意思で決めるのか。

今回のことでも認知症の人にもまだまだ、ちゃんと感情が残っていることがわかります。

これから先も最後の最後まで自問自答し続けると思います。

私自身も今年は気づいてみれば、な、な、なんと63歳になります。一人暮らしだけれど、飼い猫のドナちゃんがいます。最近私の年齢前後の芸能人やスポーツ選手が脳こうそくをおこすニュースを見聞きします。

生徒にも、母にも迷惑をかけますが、私が突然倒れて一番困るのはドナちゃん!!

食事を与えてくれる人が急にいなくなるわけだから。

自分の身にもしも何かあったらという不安も以前にも増して大きくなってきました。

あまりストレスをためないようにしなくては!!

そして、良い食事・睡眠を心掛けなければと、年の始めに思う私でありました。

図2図3図4

介護認定

 


kis0132-012母の介護認定が最高の5になりました。
介護保険に詳しくない人は大きな勘違いをしています。
費用が安くなると思っているのです。そうでは、ありません。受けられるサービスは増えますが、その分お金もかかるのです。同じ施設に入居していても介護1の人とならもしかしたら、2万円ほど開きがあるかもしれません。母は4でも目いっぱいサービスを受けていたので、これ以上増えることはありません。ですから、1単位におけるサービス料が純粋に値上がり。な、な、なんと、5000円もアップしてしまいました。

母が以前いた特養があまりにもひどく、費用は2倍になりましたが今の施設に移して3年。
母の施設に面会に週2回行くと交通費だけで、1か月6000円近くかかります。
その交通費をねん出するために、カーブス体操という健康のために始めた教室を退会しました。そのあと、20代くらいからずっと腰痛もちでしたが、あまりにも痛みが強くなったので整形外科を受診。MRIをとるように言われました。正直MRIもとりたくありませんでした。これまた、6000円ほどかかるからです。けれど、還暦も過ぎている私です、いつのまにか骨折もあるかもしれないし、受けることにしました。
すると、ヘルニアになっていました。実は、腰だけではなく、左足の鼠径部も痛い。また、左足そのものには感覚がなかったのもヘルニアから来るものだとわかりました。カーブス体操をやめたからではなく、長年この痛みに耐え、ようやくMRIをとるに至ったわけで。たぶん20年以上前にとっても同じ結果だったと思います。
ここまで、痛みが進行していたら一年くらい服薬が必要ですと言われ、まず、漢方と併用して1週間薬を飲んでみてくださいと言われました。
その1週間分の費用は2000円でした。1か月なら8000円ですよ。
カーブスをやめ、交通費ねん出したのに8000円?冗談じゃない。そんなお金出せません。そこで、念じました。痛くない、痛くないと。
そしたら、脳がだまされたんでしょうかね?これが、痛くなくなったんです。
その薬は副作用もあると言われていましたから1週間も飲みませんでした。
その後、朝は、多少痛みがあったり、突発的に激痛が走ることもたまにはありますが、持ちこたえています。私は、吐き気や倦怠感は無理だけれど、痛みは案外我慢できます。
飼い猫の愛しのドナちゃんに足首噛まれ化膿して腫れた時も足ひきずって母の施設に行ったものでした。
ああ、それなのに、なにゆえ、5なんだ?これまでの、私の努力をどうしてくれる?

実は、介護認定に納得がいかなかったら、不服申し立てができます。私は、即区役所に行きました。そして、認定員の人がとても冷たくて感じが悪かったこと。だから、母が貝のように口を閉ざして、きちんと受答えが出来なかったことなどを話しました。
すると、3年前のデータを持ってこられて、色々な項目でポイントが高いところに母の場合チェックがついているというのです。
どういうことかというと、以前は施設を施設と認識していたが、今は、家だという。
3年の月日もありますが、以前の施設は本当にひどく母以外の利用者さんも入居当初は、はつらつとしていましたが、日を追うごとに生きるしかばね状態になり、ほんとうに見ていられませんでした。ですから、家と思うはずもなかっただろうと思います。
けれど、今の施設は本当にアットホームな雰囲気なので、母が家と言いたい気持ちもわかるのです。そして、身体的なもの。脳こうそくを患い車いすの生活を余儀なくされているので、どうしても四肢の拘縮がひどくなっているとのこと。
また、食事8割は自分で食べるが残り2割は介助。また、うがいの際も自分でコップをもたなくなった等々。
つまり、認定員の紋切り型の詰問にも似た問いかけに母が答えられなかった部分は、判定にそれほど影響していなかったのです。
悔しいけれど、納得せざるを得ませんでした。

もし、週2の面会を1回にしたら随分楽になります。けれど、知り合いの方に「あんたのことが娘とわかるうちは言ってやりなさい」と言われました。そうだなと私も思い直しました。妹が行っても自分の娘とはわかりません。妹に私を指さして、「あれが、私の娘です」というくらいです。
けれど、昨日は、妹も私もわからずびっくり。演技などではありませんが、私が週1回にしやすいように自然に私をわからなくなったのかしら?と、思ってしまいました。
でも、やはり、本当にわからなくなっても私は週2回行き続けると思います。
なぜなら、母だけではなく、ほかの利用者さんも案外私が来るのを楽しみにしてくれているのです。
そして、介護スタッフさんも。
私の職業柄お子さんのお勉強相談が多いのです。
「通知表悪かった」「何にも勉強しない」「この点数なら公立無理ですかね」等々。

来年もそういうわけで、わたくし、すたこらさっさとお出かけしなければなりません(^^♪

プロゼミ 小川 文子

最近の母

 


161021二年ぶりに母の姉とご対面
にこやかな笑顔を浮かべているが、残念ながら実の姉のことは覚えていなかった。
二年前は涙のご対面だったのだけど。
お姉さんの方は私の母が実の妹とは認識していたものの、二年前母の施設で会ったことは、すっかり忘れていて、何度も母が営んでいたタバコ屋のことを聞いてきた。
帰りしな母に「あの人は誰だった?」と聞いてみたが、
それが、誰か全然わからんかった」と困った顔をした。
最近は私の妹、つまり末娘のこともわからないようだ。母がその相手を身内と認識しているかどうかは、話し方でわかる。身内以外の人、例えばスタッフさんとかには敬語を使う。
実の姉にも私の妹にもそういうわけで、敬語を使う。
考えようによっては、社会性は残っていると言えるかもしれない。きちんと、敬語を使い分けているのだから。
先日は妹に私を指さして「あれが、私の娘です」と説明していた。「私もあなたの娘よ」と妹が言うと、困った顔をしていた。
この話を卒業生のお父さんで、私が通う鍼灸院の先生でもある方に話すと、「私のところもそうです。私を私の兄と勘違いして話しますから、カチンときます」と笑いを交えながら話された。
そちらは、実は次男であるそのお父さんが親御さんのめんどうをみていらっしゃるので、何も介護に参加しないお兄さんと間違えられて腹がたってしょうがないのだ。
もし、正直私も母が私を認識しなくなったら、ちょっとがっかりするかもしれない。
家にいるときは下の世話をして、時には暴言暴力に耐え、生徒たちへの危害を与えかねない母に恐れをなして、「殺される」と逃げ帰った生徒たちがこれをきっかけにやめはしないかと、はらはらしながら生活してきた。 そして、そのあとも入院や施設を転々とするたびに色々問題が起き、まあ、大変と言えば大変だった。
辛くはなかった。悲しいという思いもなかった。ただ、体力的には、少しは疲れたかもしれない。
今は、母が施設に入っているので、体力的には随分楽になった。
でも、やはり、塾が忙しくてなかなか施設に行けなかったりしたら、気になってしまう。
また、施設に行っても、あまり元気がない様子だとやはり気がかりである。
今年母は87歳の誕生日を迎える。
そろそろ、父の年を追い越す。人生は一度きりで、親稼業も子供稼業も一度きり。
父を亡くして、あの時こうしてあげればよかった、もっと環境のいい施設で余生を送って欲しかったと、あとからあとから後悔の念が生まれてくる。一度きりでやり直しがきかないものだから、致し方ないけれど、それでも、もう少しどうにかしてやれなかっただろうかという思いが湧いてきてしまう。
母には少しでも父より長生きして欲しい。
そして、また、母の姉と会わせてあげたい。母の姉も早くにご主人を亡くしずっと孤独な生活を送っていた。今の施設に移って、とても穏やかな笑顔になった。お友達もできたと嬉しそうに話してくれた。
瞬間瞬間で、すぐに記憶が飛んだとしても、その一瞬に相通じるものが芽生えればそれだけでいい。
それが、私たちにしてあげられる親孝行なのだと思う。

 プロゼミ 小川

プログレスゼミナールイメージ

プロゼミ 小川
天才とは努力する凡才である。

合格おめでとう!

東福岡高校
 Y.H 君
中村女子高校
 M.M さん
 Y.K さん
柏陵高校
 Y.M 君

大学進学実績

【国公立】
九州大学・佐賀大学・北九州大学・長崎大学 等
【私立】
西南大学・福岡大学・日本大学・東京農業大学・筑紫女学園大学・中村学園大学・九州産業大学・同志社大学 等

カテゴリー
アーカイブ