姪の涙

介護のこと

父が亡くなって5年になる。
両親ともに認知症。仕事を持ちながら私一人での在宅介護はやはり大変だった。
机上の空論という言葉がある。
たとえ、介護のいろはを学んだとしても実践に移さねば、ほんとのことはわからないし、ケースバイケース。マニュアル通りに行ったらそんな楽なことはない。
よく、保護者の方からも相談と言うか愚痴を聞いた。
お姑さんを施設にやりたいのだが、ご主人やご主人の身内が反対すると。
お姑さんは認知症。脳こうそく。車いす。気性が荒い。うちの母とそっくり。私は実の母。
いらいらすれば、正直暴言を吐ける。しかし、ご主人の親となると、それもできない。
お風呂に入れるときも重労働で腱鞘炎になったと聞いた。お舅さんは他界しているが、今のご主人の年齢で亡くなられたので、息子なのに夫と勘違いして、浮気をした。愛する夫を奪ったとその保護者の方を殴るという。
身につまされた。
私も母から日傘で殴られ、父もハンマーを振り上げたこともしばしば。
結局施設に入れられた。
私も最終的にはそうした。生徒にも暴力をふるいそうになったから。
それまでの一連の経緯を私は殆ど誰にも相談せず、自分一人で決めた。実の妹は実は介護の仕事に就いている。だけど、あまりうちには来てくれなかった。
一か月に一回でもいいから、せめて、電話をかけて両親を喜ばせてくれと再三再四頼んでもかけてくれなかった。孫たちも最初は頻繁に遊びに来ていたが両親の認知症が進むにつれ足が遠くなったし、来たとしてもぞんざいな口の利き方しかしなかった。
私と街に出かけ服を買ってもらったり食事をごちそうになった後も家には寄ってくれなかった。心待ちにしていた両親に学校の勉強が忙しいいから帰ったよ。でも、お土産預かってきたよと私が何かしら両親の好物を買って渡していた。
泣けて泣けてしょうがなかった。
両親はものすごく貧乏をしていて、私や妹が子供の頃人並みのことがしてやれなかったことをとても悔いていて、孫たちのためにぜいたくすぎるほどのことをしてあげていた。

それなのに……

だんだん疎遠になった。
そして、父が亡くなった。父方の親戚にお前の妹家族は身内ではなく、他人が死んだような顔をしている、俺たちに挨拶もないとも言われた。けれど、お通夜・お葬式・初七日・四十九日・初盆と進んでいくうちに否が応でも妹家族とは会う回数が増えてきた。
妹は父が生きている間あまりお見舞いに来なかったが命日には毎月来るようになった。
毎月来れるなら、なら、なんで、生きているときにもっと来なかったのかとも、思ったが、ちょうど、私と疎遠になっていたころ、自分たちにもいろいろな問題が起こり、心の余裕がなかったらしかった。
もしかしたら、妹も私に相談したいことがあったかもしれない。母に対してぞんざいな態度をとっていた姪たちも、最近はよく母の施設を訪ねるようになった。
まるで、昔のことなどなかったかのように。
正直、私はやりきれないものを感じていたが、友人たちが、それは、もういいんじゃないの?今こうやってお母さんにも会いに行ってくれているのだから、水に流したらと言った。
私も、過去のことを今更持ち出してせっかく今の良好な関係が崩れてもと思いしいて言ううこともないまま、5年が過ぎた。

私は父の死をきっかけに、またもとに戻ったので、きっと父がみんなで仲良くしなさいと天国から見守ってくれているのだろうと思うことにした。きちんとみんながうまくいくように導いてくれているのだろう。
また、今年になり、母が何度か熱を出したが大事には至らなかった。これも、父のおかげかもしれない。

最近姪が、ばあちゃんとこに行く、長寿の色である紫のだるまさんを持って行くと言って訪ねてきた。
母の施設に行く前に昼食を近くのファミリーレストランでとった。その時、それまで、普通に他愛ない話をしていたのに、姪が、今だから言ううけどさ、仲が悪い時期があったやろ? だけん、また、元に戻れてうれしい。やばい、涙出てきた。
ばあちゃんたちが認知症になって、どう接したらいいかわからなくて冷たい態度をとってしまったことをとても後悔している。
今更過去は戻らんけん、今からでもばあちゃん大切にしたいと。
きっと父も喜んでいるだろう。
母は残念ながら私以外はわからない。孫を見ても孫とはわからない。だけど、それでもいいんだろうと思う。決して険しい顔はしていない。穏やかな表情をしている。
過ぎ去った過去の苦い思い出はもう忘れてしまおう。
孫からもらったかわいいだるまさんを見て目を細めている母を見てそう思った。

プロゼミ 小川

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