人を思うということ

介護のこと

1607221母を今の施設に移して2年が経とうとしています。
訪ねると、相変わらずいい笑顔。
他の利用者さんも勿論穏やかに過ごしていらっしゃいますが、顔ぶれは、随分違ってきました。
ご高齢の方も入居なさっていたので、何人かお亡くなりになってしまわれ、そして、そのあと、新しい利用者さんが入居してこられるので、自然と顔ぶれが変わります。
予感はあります。ご自分で歩いていらした方が、車いすになり、そして、ついには寝たきりになる。 そして、以前にも増して足しげく身内の方が面会に来られる。
ああ、長くないんだなあと身につまされます。

けれど、いつも元気な方の姿が突然見えなくなることがあり、そういう時は覚悟が出来ていないので、かえって不安になります。
そういう場合はだいたい入院です。
転倒骨折・肺炎・心筋梗塞・脳こうそく等々。
母が、よく、人は病気では死なない。寿命で死ぬんだと、言っていましたが、その通りだと思います。100歳近い方でも見事に復活、退院されたし、骨折で入院長引いたら、ぼけちゃうんじゃないかしら?と、思ったおばあさんも最近退院され、相変わらずかくしゃくとなさっています。
また、胃ろうのため食事を口から摂れなかった方が、最近では通常通りにおいしそうに食事を召し上がっている。

母の施設に行くたびに色々なことを考えさせられます。
字幕付きのカラオケが流れれば、その字を追って母も歌う。認知症で、字は書けなくなっているけれども、読む力は残っている。ある人は、「若か時の美空ひばりやね?」と、カラオケの画像に映る歌手たちのエピソードを語りだす。本当に和やかないい時間が流れています。大げさに言えば、まさに悠久の流れ。
幸せっていったい何だろう?母たちを見ていると、母たちこそ、世界中で一番幸せな時間を過ごしているのではなかろうかと、思います。

それと、私自身は母の施設に行くとき、このように、母だけのことではなく、他の方たちのことも気になり、なるべく週2回は行くようにしているのですが、友人たちは、そんなに行かなくていいよ、何かあったら連絡してくれる。身の回りの世話も全てしてくれているのだからと、言います。その辺のところが、私には、ちょっとわかりません。
私は、みんなが集まっている大広間に入ると、母のそばに当たり前ですが座ります。
そのあとは、周囲をゆっくり、見回して、あら?いつもの人がいないなとか、アッ、あの人、以前は点滴していたけれど、点滴の管外れている、よかった!とか、やばい!あの人テイッシュペーパー食べているとか、くまなく観察します。
母だけでなく、みんなが心配になるのです。

1607222幼稚園の先生もしていたことがあり、他の人に目を配ることがいつの間にか習慣になっているのかもしれません。幼稚園時代、間違いなく風疹になっている園児が通園してきました。お母さまは気づかれなかったのでしょうか?と、驚いたこともありました。我が子のことですら、しっかり見ていないのかと。
私は、自分のことを自慢しているのではありません。
あまりにも、最近自分中心に物事を考えている人が大人も子供も多くなっている気がするのです。
TVの政府広報のCMでも、人の立場になってみようというような内容が目立ちます。
もし、通りすがりに、自転車から、転げ落ちて、小さい女の子がしゃがみこんで泣いているのを目撃したら、「どうする?」と、子供に聞くと、大丈夫?と声をかけるという答えは非常に少ない。
めんどくさい、ママが知らない人に声掛けたら、ダメと言った、あるいは、転ぶ方が悪いとか、唖然とする答えが返ってきます。

母の施設のお年寄りは違いますよ。人としての心は、認知症になっていても、たくさんたくさん年をとっていても、ちゃあんと残っています。
「ほら、また、転ぶよ。ゆっくり歩かんと。」と骨折して退院してきた人に注意を促したり、自分も介護される立場なのに隣の方の食事介助もされる方もいる。この方は御年99歳。慈愛に満ちたお顔をされています。

あまりにも、今の時代が恵まれすぎているからでしょうか?苦労せずともある程度のものは何でも手に入る時代だからでしょうか?
謙虚さも、目上の人を敬う気もちも、弱者に対する思いやりの心もどんどん薄れていっているような気がして、とても怖いです。
ですから、私は縁あってプロゼミに来てくれた生徒には勉強よりも大切なことがあることを、常々言うようにしています。たとえ、煙たがられていてもね(笑)

プロゼミ 小川

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